プラハ 地図 チェコ共和国


ヨーロッパの中欧部に位置するチェコの地図を掲載しています。冷戦時代までは、現在の隣国スロバキアとで一国家を形成していましたが、1989年の民主革命(「ビロード革命」)後のスロバキアにおけるナショナリズムの高揚を背景に、チェコは、1993年1月スロバキアとの連邦を平和的に解消し独立して現在に至ります。

プラハ 地図

プラハはチェコ共和国(人口約1.050万人)の首都で、人口は約120万人。
町が形成されたのは、6世紀後半頃、スラヴ民族によりヴルタヴァ川河畔に集落が形成されたことがはじまりです。9世紀後半にはプラハ城、10世紀頃にヴィシェフラト城が建てられ、両城に挟まれ町が発展を進めます。
1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展することとなりました。
15世紀後半からハプスブルク家の支配下に入り16世紀後半、ルドルフ2世の治世になると、芸術や科学を愛する王の下、プラハに芸術家、錬金術師、占星術師などが集められ、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として栄華を極めます。
1618年-1648年の三十年戦争は、プラハ城で起きたプラハ窓外投擲事件を発端としプロテスタント・カソリックの宗教戦争及び国家間戦争が繰り返されました。戦争は終結後、王宮はウィーンへ移転され、プラハは冬の時代を迎えます。 人口は激減し、チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧や文化弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、2世紀以上にわたって「暗黒の時代」といわれるチェコ民族文化の空白時代を過ごすことになりました。
18世紀末、フランス革命の影響などにより再び民族独立の動きが強まりましたが、ハプスブルク家の支配が終了したのは第一次世界大戦終結後の1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体によるものでした。
その後チェコスロヴァキア共和国が成立したものの1938年、ナチス・ドイツによって占領され、チェコスロヴァキアは解体されてしまいます。第二次世界大戦中は、幸運なことにプラハが大規模な戦火に曝されることはありませんでした。
第二次大戦後は、社会主義国となり1968年にはプラハの春と呼ばれる、共産主義体制に対する改革運動が起こりますが、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍の侵攻を受け、改革派は弾圧されました。 東ドイツ崩壊からソ連邦の解体途中であった、1989年のチェコのビロード革命により共産党政権は崩壊しました。
その後は、スロバキアでの民族運動の高揚の結果、1993年にチェコとスロヴァキアが分離するとチェコの首都となり現在に至ります。
チェコの周辺域には、巨大民族で構成される国家が出現することが、非常に多く、過去には侵略・支配の対象となってきましたが、1968年のプラハの春、以降は軍事的な被害発生はなく、プラハにとっては比較的安定の時代に入ったといえるのかもしれません。