travelplatz

イタリア

項目一覧
関連地図
by Google Ads

イタリア地図 ローマの起源 ローマ史年表

ローマの近郊には都市国家が形成される前には、当然、周辺に当時としては割合と多くの人が住んでいました。
テヴェレ川は護岸工事以前であったため、河川の蛇行する湿地帯(水の便の良い場所)近くの高台(洪水の被害を避けるため)を選んで、都市形成の基盤としたものと考えられます。
古代ローマは7つの丘の上に築かれたとされているが、現在においては、当時の丘の間の谷間が、建築を重ねることによって埋め立てられたことにもより、ただ眺めているだけでは、7つの丘の存在を実感することは、なかなか難しい。 しかしながら徒歩、又は自転車(傾斜に敏感)で7つの丘あたりを探索すれば、標高差が実感できます。 現在では、丘の標高は約50m 谷間の標高は20m(いずれも海抜)とされる。 また、現在の都市地域の拡がりと比較してみると、ローマといえども非常に狭い地域から都市国家が発展していったことが見て取れます。
ローマの都市国家形成の時代は、紀元前7世紀ごろとされ、比較対象がないとわかりにくいと思うので、地図の下段にローマ史と日本史の比較年表を付けておきます。 日本においては、ちょうど縄文時代末期から弥生時代はじめのころとなります。

都市国家が形成され、周辺地域からの侵略を防御するため、街の周辺に防御のための城壁が築かれてゆきます。 ヨーロッパ地域において、街の周りを城壁で取り囲むという防御手段は、攻城砲の能力が圧倒的に防御陣地を上回る18世紀ごろまでは、非常に有効とされていました。
ローマで最初に城壁が築かれたのは、紀元前6世紀頃のセルヴィウスの城壁でしたが、紀元前390年ガリア人のローマ侵略によって簡単に突破されたため、紀元前378年以降に、長さ約 8km 高さ 8.5m 幅 4.5m という規模に改修されました。 部分的な遺構は現存しており、チルコ・マッシモ近くでみることができます。

その後、ローマは繁栄の時代を迎え、ローマの街が侵攻の対象となったのは、ポエニ戦争によるハンニバル軍襲来のときのみであり、帝国の版図が拡がっていく時代には、防御のための城壁は必要なかったものと思われます。

ローマは繁栄の時代を過ぎたころ、周辺地域の国家の台頭や侵略に備えて、紀元後270-275年のアウレリアヌス帝の時代に、新たなローマ市街を覆う防御壁が建設されました。 現在の街の規模と比較しても、かなり大規模な建築物であったことが見て取れます。 しかしながら防御壁が完成したものの、410年の西ゴード族のローマ占領や、442年の大地震を皮切りに、ローマ起源の地であったフォロ・ロマーノ地域の破壊が始まりました。 その後、土砂が堆積し荒地となっていたこの地域が遺跡として発掘されはじめたのが18世紀末のことです。

地図では、7つの丘の表示とセルヴィウスの城壁(紀元前6世紀に基盤完成)とアウレリアヌスの城壁をみることができます。 また現在のローマの主要観光ポイントも表示、地図の下には年表も添付しています。


世界各国の人が、flickr に掲載している写真(関連性の高い順)をみることができます。

loading....
キーワード 旅行のクチコミサイト フォートラベル
Loading...