travelplatz

フランス:プロヴァンス

項目一覧
関連地図
by Google Ads

フランス アヴィニョン 観光

歴史の中で、アヴィニョンが突然登場してきたのが、アヴィニョン捕囚であり、キリスト教のカトリック・ローマ教皇の座が、アヴィニョンに移されていた時期(1309年~1377年)をさす。古代のバビロン捕囚になぞらえ、「教皇のバビロン捕囚」とも呼ばれた。
1303年にフランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の対立からアナーニ事件(フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃した事件。)が起こり、これ以降、教皇はフランス王の言いなりとなっていった。その主原因はフランス領内にある教会や修道院の納める税金の配分で、フランス国王側とローマ教皇との間で確執が続いていた。
フランス国王フィリップ4世の要請により、1308年教皇庁がアヴィニョンに移され、1309年にクレメンス5世はアヴィニョンに教皇座を定めた。
アナーニ事件の事後処理のためのヴィエンヌ公会議の準備に手間どるあいだに,イタリアは神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世によって侵略された(1310~1313)ため,教皇はイタリアに帰れず、アヴィニョンに滞在せざるをえなかった。
アヴィニョン捕囚期には多くのフランス人枢機卿が新たに任命され、また教皇はすべてフランス人であった。

アヴィニョンを広域の航空地図で俯瞰すると、ローヌ川の扇状地の真ん中にある。要塞のような法王庁宮殿が造られたのは、周りの地形が敵の攻撃から遮蔽すべき地形でないことの証でもある。 また、途中で崩れ落ちているサン・ベネゼ橋に代表されるように、河川の氾濫による災害も護岸工事が完成されるまでは頻繁であったが、普段の生活用水の獲得には、何ら不自由がなかったと思われる。
教皇の権威が失墜した「アヴィニョン捕囚」であったが、教皇移転に伴ってこの地域を中心にイタリア文化が広まり、短期間ではあったが第2のローマとしてプチ栄華を迎えた時代であった。
アヴィニョン市内は、法王庁宮殿とサン・ベネゼ橋を観光したら、近隣の街(アルルやニーム)にも出かけていくパターンが多いようです。 宿泊施設は、様々な施設がそろっており、交通機関との接続も良いので、この地域を巡る拠点都市ともなっています。(現在のアヴィニョンの人口は約9万人)


世界各国の人が、flickr に掲載している写真(関連性の高い順)をみることができます。

loading....
キーワード 旅行のクチコミサイト フォートラベル
Loading...