ヴェネチア観光

ヴェネチア地図

ヴェネチアの町は、117の島々の上に作られていて、運河が150、400の橋から構成されています。運河は「リオ rio」、広場は「カンポ campo」、通りは「カッレ calle」あるいは「サリッツァーダ salizzada」、岸は「リーヴァ riva」あるいは「フォンダメンタ fondamenta」、埋め立てられた運河は「リオ・テッラ rio Terra」、家の下の通り道は「ソットポルテゴ sottoportego」、中庭は「コルテ corte」、小広場は「カンピエッロ campiello」と呼ばれています。
町の起源は、811年、リド島の近くのマラモッコの住民たちによって作られました。彼らはフランク族から逃れて、現在の「リアルト橋」付近の最も安全な島々に居住しました。828年エジプトのアレクサンドリアから聖マルコの遺体が運ばれてきて以来、聖マルコの守護のもとに、独自の共和制統治を急速に進めました。
ヴェネチア帝国の時代
9-13世紀にかけて、東洋と西洋の間という恵まれた地理的な関係から、海運と商業が発展、十字軍のコンスタンティノープルの征服に伴い、略奪品等がヴェネチアに流れ込むとともに高価な物品の取引も盛んとなりました。制海権を巡って長い間ジェノヴァと争いましたが、1381年にこの宿敵に勝利しています。帝国の最盛期は15世紀の前半で、陸上の周辺域とアドリア海の沿岸地域を広く制覇していました。
ヴェネチア 衰退の始まり
1453年、トルコ人によるコンステンティノープルの奪還、アメリカ大陸の発見によって既存の通商路が変更、ヴェネチアはトルコを相手に戦いを継続するもトルコの勢力は次第に伸長してゆき、ヴェネチアは衰退の時期を迎えます。 1797年、ナポレオンがヴェネチアに侵攻し、伝統ある政体を廃止、カンポフィルミオ条約によりナポレオンはヴェネチアをオーストリアに譲渡されることになりました。 ヴェネチアとヴェネチア州が近代イタリアに統合されたのは、1866年のことでした。
ヴェネチア共和国の政治形態の特徴は、その成立以来、ひとりの人間への権力集中を避けるように努められた統治形態をとっていました。 統治総督は権力の中枢となってはいましたが、複数の監視組織の下にあり、独裁の危険性はなかったものの、時代を経るごとに、政治体系の複雑さが増すこととなっていました。

サン・マルコ広場 地図

by expedia

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