サンクトペテルブルク

サンクトペテルブルク 地図

この街は、ロマノフ王朝の時代:サンクトペテルブルク。ソ連が誕生の後、ペトログラード ソ連邦の時代は、レニングラードと呼ばれていました。
第二次大戦時に最大の危機を迎えています。1941年9月8日 – 1944年1月18日の期間、ナチス・ドイツ軍はソビエト連邦、第2の大都市レニングラード(現・サンクト・ペテルブルグ)を900日近くにわたって包囲・攻撃を行いました。
レニングラードは包囲戦に耐え抜いたものの、飢餓や砲爆撃によって、ソ連政府の発表によれば67万人、一説によれば100万人以上の市民が死亡したとされています。

当時のソ連は、対ドイツ戦争の緒戦、独ソ国境付近に布陣していたソ連軍は敗退を重ね、ドイツ軍は短期間のうちにバルト三国に侵攻してレニングラード前面へ迫りました。また北方からフィンランドによるレニングラード北部地方への侵攻も始まり、街から退避する時間的余裕もなくなったため、ドイツ軍の来襲までに突貫の防御施設が作られました。
ロシアの伝統でもある要塞戦の巧妙さもありましたが、航空兵力を備えた近代軍隊(それもドイツ)の包囲攻撃に長期間、耐え抜いたことは、驚異的なことでした。包囲中のドイツ軍による爆撃と砲撃、補給戦の途絶など危機的な状況があり、市街中心部をはじめ郊外地域においても大規模な損害を受けています。
都市の景観は、運河をたたえた美しい町で、北のヴェニスと称されることもあります。 サンクト・ペテルブルグは「聖ペテロの街」を意味しており、これは、建都を命じたピョートル大帝(ラテン語でペテロ)が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたものです。 
ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきたこともあり、ロマノフ朝帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動していた歴史があります。また当時は首都でもありました。 
そうした伝統は現在も色濃く継承され、ロシアを代表する文化・芸術都市となってます。その土地柄、訪れる観光客も首都モスクワと比べ圧倒的に多いことも特徴です。

ネフスキー大通り

モスクワ駅(サンクトペテルブルクの)から旧海軍省まで延びている市街地を横断している繁華街で歴史的な建物が数多く並ぶ。

エルミタージュ美術館

ロマノフ朝王侯貴族の収集品とソ連邦時代に国有化された収集品が展示される世界有数の美術館で世界四大博物館の一つとして有名(故宮博物院(北京説・台北説)、ルーヴル美術館、メトロポリタン美術館、エルミタージュ美術館)。

宮殿広場

エルミタージュ美術館に南面している中心広場。中央には1812年の対ナポレオン戦争勝利を記念して作られた高さ47.5mのアレクサンドルの円柱が建っている。

聖イサアク大聖堂(聖イサーク大聖堂)

ロシア正教会の大聖堂で全高101.5メートルのドームを持つ。ピョートル大帝の守護聖人、ダルマチアの聖イサクに由来する名称。現在の大聖堂はアレクサンドル1世の時代に建造されたもので、1818年から1858年まで、40年に渡り工事が行われた。ロシア革命後は、ソビエト政権の下で博物館となっていた。ドームの上の展望台にも上ることができる。

血の上の救世主教会

ロシア正教会の聖堂。この名称は、1881年3月13日ロマノフ朝ロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺によるもので、皇帝遭難の場所の上に建つ。モザイクや彩色タイルなどで装飾された美しい教会。

ペトロパブロフスク要塞

18世紀に発生した大北方戦争の過程で、スウェーデンから奪った土地を防衛するために築かれた要塞で中央に、ペトロパヴロフスク寺院があり、ピョートル大帝以降の皇帝が葬られている。19世紀には、政治犯収容所としても利用され、一時はドストエフスキーやレーニンも収容された。 現在は、造幣局として利用されており一部は観光客にも開放されている。

ストリェールカ

ネヴァ河の中州にあたるヴァシリエフスキー島の突端にある展望所(下記の風景はドローン撮影画像)、宮殿河岸通りとペトロパブロフスク要塞が遠望できます。